ほさきから、404 not foundへ
2022/1/24(月)
今日、追加注文した本棚の棚板が届きました。というわけで前回の日記で書いた本棚整理はまだまだ終わってはいない状況です。正確に言うと床の本はほとんど収納されたのですが、本棚以外の棚も整理の必要があるので道のりはまだまだ先なのでした。それなりに処分しているはずなのに、なぜこんなにも物が多いのか……たぶん紙類が多いのと、祖父母宅から巡り巡ってやってきた古着などもあるからでしょう(冬物はものがいいこともあり、有り難く着てぬくぬくしています)。
ちょっとした小旅行に行くときの、ボストンバッグやリュックを見下ろしてこれだけあればどこへでも行けるという感覚が好きなのに家にはなんだかんだと物が多いのは、自分が好きで入手したものだけでなく、どこかからやってきたもの、引き継いだものもあるからなのだろうな、と思います。身一つ、にはなかなかなれない。
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高いところも平気なうさぎ。 |
『「昭和」を生きた台湾青年』を引き続き読んでいるのですが、大正十二年生まれの作者の幼少期の思い出で、祖母や子守達が四色牌や圧蛤殻などの博打が好きだったという描写があって、場所も時代もぜんぜん違うのにそこだけ『陳情令』で想像しながら読んでいました。子守の女性が子ども(作者)を連れて古いお寺で博打をしていたら警官がやってきて、みんな慌てて隠れたので一人残された子どもが一人で遊んでいると嘘をついてごまかした、とか、いかにも『陳情令』の世界でありそうな気がします。当時住んでいた家の間取りや冠婚葬祭、家族制度の話などもあって面白いです。
日本だってほんの150年ほど前、今生きている人間の3〜5代前まで遡れば江戸時代で、その後に明治、大正、そして昭和から平成・令和に続いているということを考えるとなんだか不思議な気持ちになる……というより、「昔の時代」を下手に自分の想像力だけで想像すると実際のそれより貧しくイメージしてしまっていることに、この手の思い出話を読んでいると気づきます。
学生時代は良い先生に恵まれた、と綴られているなか、支那事変の際に学校で「支那事変日記」というのを書かされて愛国心を示すような記載ばかり求められた、という記述にぎくりとしました。
2022/1/26(水)
昨日からまんえん防止法が適用され、東京の感染者数は1万を超えました。404さんの言う「もうこれ以上はできない」というところにいる人はもうずいぶんいるのではないか、とタイムラインやニュースを見ていても感じます。
わたしの職場は緊急事態宣言が出るとテレワーク可になるので、去年は感染者数が増加する=緊急事態宣言等がでる可能性がある=在宅勤務体制になる=会議など仕事の進め方がいきなり全部ひっくりかえる可能性がある、という意味でも感染者について常に意識していた気がするのですが、このあたり今回は動きが遅いな、という印象があります。まんえん防止法の内容も各県で異なる現状、宣言が出たら何もかも解決するわけではないし、テレワークが可能になっても出勤が必要な場合なんて多々あるのですが。
韓国で飲食関係の自営業者の人たちが、営業時間を制限する政府への抗議のため一斉に丸刈りになった、というニュースを見ました。日本では昔アイドルが謝罪のため丸刈りになっていましたが韓国では抗議行動になるのか、そうやって意思を皆で示すのか、とちょっと衝撃でした。
神奈川、大阪に続き東京も、自宅療養者の急増により、リスクの低いコロナ感染者については患者本人の健康観察が導入されました。
ここ数日で各地の保健所の体制など諸々が崩壊したこと(だけ)はわかるけど、つまり健康観察、とは……? と思っていたら実家の親から、親戚が発熱したらしい、発熱相談センターに連絡しても全然電話が繋がらないようだと連絡がありました。
結論から言うとこの親戚は発熱と言っても高熱を出すことはなく、病院では内耳炎の一種かなにかだろうと言われたようですが、こういう時にはどうすればいいのか、なにか知っていることはあるかと聞かれて言葉に詰まってしまいました。東京都の発熱相談センターは最近問い合わせ用電話番号を増やしたこと、親戚の住む自治体がPCR検査を強化したとタイムラインで見かけたのでそれについては伝えたものの、電話は繋がらないし検査はいっぱいだったとのことで、ではその次の手は、他にどうすればと聞かれたときに何も答えることができず……つまり今、熱が出てコロナではないかと思って不安になっても検査に繋がることができなければどうにもしようがないし、仮に検査ができてもその結果自宅療養になればやっぱりできることは少ない、のか……? と今更ながらに気付かされた感があります。
常日頃、ちょくちょくTwitterやネットを見ているわたしは親戚内では誠に不本意ながらも『コロナ関係についてなんか妙に情報持ってて詳しい人』認定されていて、去年もワクチンの予約がなかなか取れないという親戚に自衛隊のワクチン予約の情報などを流したりしていました。つまり去年のワクチン予約についてはタイムラインに予約が取れない場合の『ハック』が一応は存在していたわけですが(そしてそういった情報格差があるという状況もそれはそれでどうなんだとは思うわけですが)、今の検査に繋がりにくい状況や健康観察についてはそれがない。最近は熱で喉が痛いときに何を食べれば適切かなどといった情報をよく見かけるようになってきている気がします。もちろん、そもそも医療従事者ではない一個人にできることがないなんて当然だと言われればその通りではあるのですが。
……そう思う時、もう今更の話かもしれませんが健康観察とか、みなし陽性といった言葉がさらりとニュースで紹介されているこの状況は何なのだろうと改めて思うのです。
いつも行かないスーパーに行ったら、もうホタルイカが売られていてびっくりしました。
春が近づいてきています。
404 not foundから、ほさきさんへ
2022/2/14(月)
この2週間ほど、体調が上向かず、お返事を書き始めるのがすっかり遅くなってしまいました。すみません。今日はほどよく元気です。寒い日々が続いていますが、毎日、いまが一番寒いんだ、しばしの我慢だ、と念じてばかりいます。早く春になってほしい。
さて先週は、病院に行くように周りに促されて、行ったりしていました。わたしの想像よりも医師も薬剤師さんもみんな親切で、ほっとしました。わたしはすっかり大人だというのに未だに病院が苦手です。ですが、寝てたって治らないんだよ! と家で叱られ、返す言葉がありませんでした。そうして、なにやらどうにかするための薬もらってきました。良くならなければまた来てくださいね、と言われたのですが、胃腸や発熱はともかく、数年放置していた咳のほうはしばらくかかりそうな気がします(なぜ放置してしまったのか)。
しばらくお粥ばかり食べていたので、すっかりお粥を作るのが上手になりました。すぐ楽しいほうに流れる人間なので、回復しだしてからは、中華風にしたり、ミルク粥のような洋風にしたりと、わりかし楽しいお粥ライフを送っています。
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この日は中華風だったかな |
そういえば、わたしも東京発熱相談センターに電話をかけました。上で書いた病院にかかる前に、発熱した状態で病院にかかっていいのかどうかがわからず、相談したのでした。電話はまったくつながらないのはその通りで、同居人が繰り返しかけてくれた結果、なんとかつながったものの。
電話口の人も、ほどほどの熱があると言われれば、念のため病院に、と答えるほかないだろうなあと思いつつ、症状を相談したりしました。紹介された病院でPCR検査も一応受けました。わたしは幸いにも陰性だったわけですが……陰性であっても検査の結果が出るまでは同居人も自宅待機するほかなく、影響範囲が大きい……とぼんやりしてしまいました。結果、1件目の病院でPCR検査をうけ、陰性であったので、症状を快方に向かわせるために、もう1件別の病院にもかかった、みたいな感じで、方々にお手間を取らせた感もあり、心苦しさがすごかったです。
2022/2/19(土)
朝からWOWOWで『陳情令』に関連した番組を流していたので、一日見ていました(この日のためだけにうっかりWOWOWを契約してしまったことをここに告白します)。
日本で行われたオーケストラコンサートと、タイや中国で行われたファンミーティングやコンサートを編集したもの、あとはコンサートと制作時のドキュメンタリー。情報量が多くてまだ言葉になりません。
2022/2/20(日)
少しばかりにぎやかな場所へ出かけました。目的としていた中華風カフェは行ってみたら営業していなかったので、近くにあった創作ベトナム料理屋さんに入ったところ、洗練されたたいへんうつくしい料理が出てきて、謎の声がでてしまいました。
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这个兔子很喜欢漂亮的菜✨
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ちまちまと『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』(磯野真穂)を読み進めています。またしてもこの本をこれこれこういう本です、と一言で説明するのがとてもむつかしいのですが、磯野真穂さんの書いていることを追っているのは、何かしらの「リスクの情報」とどう関わるか、自分の実感を無視しない状態でいるにはどうしたらいいか、を考えているからだなと思います。
それこそ、この日記でも繰り返し、わたしもyenさんも話題に上げてきた、コロナウイルス感染者数という情報そのものと、日々の生活の実感については少しばかり(人によってはかなり)違うものであるはずで、わたしが感染者数を追わなくなったのは、yenさんの置かれている「緊急事態宣言が出るとテレワーク可」といった条件がないからなんだろうなとも思います。(緊急事態宣言が出されてなくてもテレワークできるひとはしたほうがいいと思うが!?と素朴に思ってしまいますが、そうもいかないんでしょうね……)
この本もまだ読み途中ですが、「直接経験」が「情報経験」によって上書きされたり、飲みこまれることの危険性、という話題から一歩進んで、「情報」から得られた「直観的な印象」が、「そのまま身体感覚に落とし込まれ、それが感覚の貧困化につながる」のでは、といった話題が出てきます。わたし自身、この2年間、かなり小さく生活をし続けていて、何かしらの経験よりも記号化された情報しか摂取していない感じがあり、情報を得る、情報から印象を受ける、以外の経験をするのが下手になってしまった気がしています。日々においても五感が動いてないというか…うまく言語化できないのですが、ちょっとあやうい気もするのです。
そんな感じもあって、本当は家にいたほうがいいことはわかっていたのですが、感覚を優先して外に出た、というわけでした。ちょっと移動してご飯を食べて帰ってきた、というだけなのですが、それでも十分だなと思います。