浦島太郎/時間を手繰り寄せる 2023/09/15 〜2023/10/13

ほさきから、ひらたさんへ

2023/09/15(金)

真夏日が80日以上あったという蒸し暑さも来週からようやく和らぐようです。とはいえ今日はまだ蒸し暑い……と思っていたら、午後から突然大雨が降りだしました。

今週頭、内閣改造のニュースとほぼ同時に、コロナ第9波の報道がされるようになりました。わたしの体感では8月上旬から罹患したという報告をタイムラインで複数見るようになった気がします。医療現場の方はそれより前から注意喚起をしていたので、随分時間がかかったという印象です。

前回の日記以降、つまり5月以降どうしていたかしらと思い返してみると、合唱の公演に複数出て、楽器を再開し、所属していた合唱団体を辞めました。その合間にアフタヌーンティーへ行ったり美術館や買い物に行っていたらのですが8月頭にコロナに罹患、回復したと思ったら濃厚接触者になって公演をひとつ欠席したりしていました。
その後、後遺症外来の病院に行ったところビタミンD欠乏状態と分かり、今は仕事が閑散期なのを幸い、在宅メインで働いています。発熱や呼吸器系、味覚や嗅覚などへの影響がよく言われる病気ですが、どうやらこの病気は体内のビタミンやミネラルをごっそり奪い、かつ自律神経を弱らせるものでもあるようです。
高熱が出たけれど翌日はすっきり回復する……というのではなく、週単位で少しずつ、薄紙をはがすように回復の経過を辿っていることを確認するたび、よしながふみの「愛すべき娘たち」第一話を思い出します。薄紙をはがすように、という言い回しを、わたしはあの漫画で初めて知ったのでした。

そんなわけで自分の周りだけ時間の流れが急に変わってしまい、浦島太郎のような、取り残されたような気持でいます。
とはいえここで焦ってはならぬ、とにかく心身が疲れないよう過ごすように……となると必然的に今までやっていたどれを優先するか・したいかということを考えざるをえなくなり、結果、なるほどそうだったのか、と自分に驚いたりしています。例えば仕事はもう自分の中心では全くないのだな、とか。

しかしコロナ発症から間もない立場で外出すると、街中や電車の中のマスクをしていない人、咳をしている人の多さにびっくりします。高齢者世代でない者への無料ワクチンは今冬が最後だそうですが、いやこのタイミングで!? マジで!? と言いたくなります。


2023/09/18(月)

敬老の日、ということで祝日だったので合奏の練習をしに行ってきました。
それにしてももう涼しくなるよという話は何だったんでしょう。今週末から涼しくなるという話もありますが、あまり信用できません。

久しぶりの電車に乗っての外出、グーグルマップを見ながらの初めての場所への移動、職場の同僚以外の人との会話ということで、疲れはしましたが何というか、すごく気持ちが上がって我ながらびっくりしました。
この感覚には覚えがあるぞ、なんだっけ……と考えたのですが、2020年のまだマスクもろくに入手できず世の中的にも外出や人と会う行為そのものに怯えていた頃、久しぶりに友人にオフラインで会ってお喋りした時の感覚、が一番近い気がします。
基本的に平日は自宅で在宅勤務、週末には近場に外出、webにもいつでも繋がれるのであまり自覚はしていなかったのですが、なんだかんだで電車に乗っての外出はひと月近くしていなかったし出歩く場所もいつも同じ場所と、安静にしているといえばそうなのですが、要は結構単調な生活を送っていたのだなと。
やっぱり外からの刺激が大事だなと思いましたが、それはそれとしてもうちょっと何か、没頭できるものがあったほうがいいんじゃないか、と思ったのも事実です。Twitter(現在名称はXとなり各種用語も変わっていますが、まあそれはそれとして)の混乱に伴い多少見る頻度は減っているのですが、もうちょっと別にオフラインでやることを見つけたい……。

それはそれとして色々練習しなきゃなということがよくわかりました。ぼちぼち頑張ります。


2023/09/29(金)

10月もこの暑さは続くと言いますが、もはや冬服を着る自分が想像できません。わたしは年内にニットを着るのだろうか……。

朝ドラの「らんまん」は今日が最終回でした。
好きなものに夢中になると他のものが目に入らなくなるというある意味でははた迷惑な、しかも今と価値観が大きく違う明治の天才キャラを視聴者に受け容れさせるために現実の出来事とはいろいろ大きく変えているようですが、主人公というよりは彼の周りにいる女性含む沢山の人がひとりもテンプレートな描写をされず、それぞれに魅力的だったな、と思います。やな奴、と思った人物について、その後に複層的で感情移入させるような描き方が自然になされる、という展開が何度もあって、それがいつも鮮やかだった気がします。個人的には坪内逍遥や都市開発の関係者がさらっと出てきたのもうれしかった。
大学の研究室にいた人たちは主人公をきっかけに植物を愛し、帝国化の進む日本の国立大学に所属する者として研究世界の派閥に巻き込まれ傷つきながらそれぞれの道を行くのですが、最終週で老いた主人公のもとにかつての頃のように集う……という流れ、いえ物語全般が、なんだか美しいおとぎ話のようだなと思いながら眺めていました。

中秋の名月ですね。この日が満月に重なるのは結構珍しいことなのだそうです。
なんとなくこの半年くらいを振り返って、結構色々やってきたよなあとしみじみしたりしていました。

そういえば詩との付き合いについて。
正直わたしも自分がどうしたいのかよくわからない状態が5年近くは続いている気がします……というか、単純に短歌を楽しんだり、どうしたいかわかってる状況の方が短かったかもしれない。
ただ夏ごろからのTwitterの混乱やそれに伴う他のSNSへのアカウント作成、並行利用などを通じて改めて思うのは、やはりわたしの詩歌との出会いはTwitterの影響がとても大きかったのだろうということです。
つまり、他者の存在を意識しやすく、かつ自意識が刺激されやすく先鋭化しやすい状況下でわたしは短歌を作りはじめ、それを今も細々と続けており、しかしながらどうにかその影響から抜け出したいと願っているものの、なかなか難しく苦労している、ということです。
そうした中で生まれた交流もあったし考えさせられることもあり、SNS上での短歌に関する経験が役立ったことも、まあ無くはないのですが、とはいえあれが「よい経験だった」とは今も全く思わない。そしてわたしは今もSNSを止めていないし、Twitterから今より離れるにせよ、完全に手放すことは難しいのではないかと感じています。
詩歌というのはもっと個人的なものでいいし、それが本来的なものというところもあるんじゃないかと思いつつ、その「個人的」に戻るのが今は全般的に難しい時代なのかもしれません。

何が言いたいかというと、この状態で関わるのは申し訳ないなと思うゆうさんはわたしより誠実だし、反応として正しい気がする、ということです。


ひらたから、ほさきさんへ

2023/09/30(土)

中秋の名月にバトンタッチ! でしたね。
昨日わたしは、病院へ行った帰りに、池袋で肉入りの月餅を買い求めるなどし、すっかり月より団子に傾いていました。甘い月餅ではなくしょっぱい月餅を一度食べてみたかったのです(端午の節句のちまきのときもこんなことを言っていましたね!)。おいしくてもりもり食べてしまいました。

5月以降のyenさんに起こった出来事を読みました。旧Twitterでその一部始終を垣間見てはいましたが、本当に大変でしたね……合唱のことも、コロナのことも。気持ちも身体も少しずつ回復に向かっているのであればいいのですが。

わたしは未だにコロナにかかってはいないのですが、世間の様子を聞くにいつ罹ってもおかしくないのだろうとは思っています。友人の一人は「ウイルス自体はもうあちこちにあって、あとは免疫力の話なのかもしれない」と言い、もう一人は「体感でいまが一番流行ってる。周りがどんどんかかってるし、後遺症が重たい人も見かける」と言っていました。若干引きこもった生活をしているため世間の様子に疎いのですが、友人を通じて、世間にアクセスさせてもらっている気がします。

そして高齢者世代でない者への無料ワクチンは今冬が最後、とのことで驚きました。国が全年齢のワクチン接種を助成する、というのは少なくとも予防へのアクセスのしやすさ、公平性が保たれていた状態だったんだろうと思うので、なかなか複雑な気持ちです。

話は変わりますが(笑い話として聞いてほしいのですが)、今回の交換日記を読んでいて、「没頭」が本当に読めなくてびっくりしました。中国語で没はméiと読むのですが(否定の副詞なので頻出します)、yenさんの日記を読んでいて「めい…とう……?……いやちがう、ぼっとう!!!」となりました。一体どんな間違いだ、と笑ってしまいました。

日本語を読んでいるのに、脳内で中国語読みをしてよく間違えるようになった単語は他にもあって、筆頭は「香港」です。香港は日本語ではホンコンと読みますが、標準中国語では香港Xiānggǎngと読みます。例文の中によく出てくるので、「えーとえーと、香港Xiānggǎng……は、えーと、しゃん、はい、じゃなくて……ほんこん!!!」といった感じです。素直に「ホンコン」とは読めなくなってしまっているんですね。自分の中で単語がこんな風に上書きがされるとは思っていなかったので、不思議です。

それにしても、どうしてこんなに遠い読み方なんだろうと思い調べてみたところ、日本語の「ホンコン」という読み方は広東語からきているもののようです。


2023/10/03(火)

通勤時間にちびちび読んでいた『モモ』(ミヒャエル・エンデ著 大島かおり訳)を読み終わってしまいました。久しぶりに物語に夢中になった側面もありつつ、いま自分の生活のなかで時間がどのように奪われているか、差し出しているか、使っているか、を振り返りながら読んでいました。モモのようにあれたら。かつてのジジや、ベッポのようにあれたら。

時短、時間短縮という単語はすでにわたしたちの生活の中に定着し、労働の場面だけではなく、家電やレシピなどあらゆる場面で見かけるものですが、時短しなきゃいけないのがそもそもいやだ、みたいな気持ちになっています。贅沢でしょうか(といっても、わたしは疲れた日には冷凍の餃子を茹でて食べるだけ、みたいな生活をしているので、たいして時短を意識して何かをやってはいないのですが)。

『モモ』を読んでからというもの、働く速さ、歩く速さ、そういうものを意識的に落としてみよう、外圧として速度をあげてこようとするものに抗おう、という気持ちになっています。現実に存在している灰色の男たちに抗わなくては。

そうそう、引っ越した先は古い場所ですが、緑がたくさんあって、秋にはいってますます花が咲くようになって、とても美しいのです。


2023/10/13(金)

メダカが泳ぐ甕をのぞき込んでいたら、頭にどんぐりが落ちてきました。すっかり秋ですね。キンモクセイも少しずつ香るようになってきました。

先週半ばから体調が優れず、連休はほぼ布団の中で過ごしました。数年経過観察していた筋腫がいよいよ「治療」のフェーズに入ったので、その影響もあると思います。症状について先生に問われ、動悸や倦怠感などいくつかの症状を伝えたところ、手術の選択肢を伝えられました。死ぬようなものではないし、おそらくさくっと手術をしてしまったほうがいいのですが、手術することを考えたことがなかったので、平たく言うとビビっています。痛くないといいなあ。

そんなわけで、体調がいまいちなのも手伝って、しばらく落ち込んでいました(今日は比較的元気です)。

憂鬱のなかにいるとき、わたしは過去の時間に留まっています。過ぎ去っているにもかかわらず、過去を反芻してそこに留まる。それはただただつらいです。だから一瞬の、「今」の連続に自分を引き戻さなくてはと思います。これに関しては、これまで数多のアドバイスをうけてきて、家事でも運動でも、身体を動かすことがひとつ有効だとわかっているので、最近はよく散歩にでかけています。――ただそれも、「価値がある行為(だからやる)」という文脈に乗せることはしんどく感じます。自分の行動について、毎度毎度何かしらのジャッジを走らせるのをやめたい、みたいな話なんでしょうね。

そうそう、のろのろ散歩していて気づいたのですが、近所の集会所からときどきピアノの音が聞こえます。誰かがそこを借りて練習しているのだと思うのですが、なんともすてきです。

yenさんは最近楽器をやられているとのことですが、どんな楽器を弾いているんですか? よければ教えてください!





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