腐れ縁みたいな/あなたの線わたしの線 2022/1/10〜2022/1/21

ほさきから、404 not foundへ

2022/1/10(月)

年末年始は交換日記をお休みしていました。
そんなわけで少し遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

6日の午後から東京は雪が降りだしてそのまま道路が凍りつき、だからというわけではないのですが三連休前後はなぜか二次創作短歌をえんえんと作っていました。4日夜にスペースで短歌の話をした影響もちょっとあるかもしれません。なんだか腐れ縁みたいなやつだなあと思います、短歌。
土曜日に新しい本棚が届きました。中身を入れるのはこれからですが、天井まである真っ白な本棚はなんだかそこだけまっさらな感じがします。……その前には本の山がひたすら積み上がっているのですが。

フォーセタオーー火を灯すとは火を囲む暗闇を見ることだーーメユーヴァ

今年もよろしくお願いします。

2022/1/12(水)

東京の感染者数が二千人を超えました。
一昨年も11月から12月にかけて感染者数が増加、大晦日に四桁になって愕然としたまま2021年の新年を迎えましたが、あのときとは増加スピードが桁違いで、ほんの数日で世界がぐるりと塗り替えられたような気がします。一方で二千人超えは去年の9月以来だそうで、そうか9月時点でそんな状況だったかとも思いました。感染者数の数について、どこからを多いと言うべきなのかいつが多かったのか、よくわからなくなってきている気がします。
ハンマー&ダンスというけれど、振り下ろされるハンマーの気配に怯えながら、振り下ろされた誰かのことを知りながら、短い期間だけ楽しく踊り抜くなんてそうそう簡単にできる話じゃないんじゃないの、とは去年思ったことです。だけど今年の公演はどうなるのか気になるし、行きたいところ、やりたいことはやっぱり沢山ある。

昨年末、室町コレドテラスの誠品書店で『空港時光』(温又柔)を買いました。
『空港時光』はもともと、わたしの私家版歌集を読んでくださったフォロワーのHさんが、連作を読んでいて浮かんだ、と上げていた本です。台湾の歴史についてなどの本は以前にちょっとだけ読んだことがあったのですが、どちらかというと資料としての本で、こういう距離感で語られた本、小説はそういえば読んでなかったな……と思いました。こちらは昨年中に読み終わって、今は『「昭和」を生きた台湾青年』(王育徳)と『ホロコーストと外交官』(M・パルディール、松宮克昌・訳)を少しずつ読んでいます……と、ここに書くのは挫折しないためなのですが。

マクドナルドがポテトだけでなくハッシュポテトも販売停止にするというニュースを見かけました。
結局の所マスクと手洗いしか積極的に自分で身を守る術はないんだよなと思いつつ、親のワクチン三回目接種の予約開始の時期が近づいてきています。

2022/1/17(月)

偉大なる文明の利器・電動ドライバーの助けもあり、本棚に収まった本はこの週末で随分多くなりました。とはいえこの手の作業でよくある、「片付けのために持ち物を広げた結果、むしろ却って散らかった状態になっている」のは引き続き変わりません。道のりは遠いなあと部屋の中でちょっと途方に暮れています。
ちなみにまだ棚の上部は空というか、棚板自体をまだ入れていないので、時折うさぎ達が鎮座ましましています。見下されたときの威圧感たるや。

本棚に本を詰め直すのと同時並行で処分する本を決めたりもしているのですが、本棚というのは自分の構成要素なのだなとつくづく思います。もう何年も開いてはいないけれどそこにあってほしいと思う本もあるし、もうこれはなくても大丈夫かな、という本もあったりします。

そんなわけで共通テスト会場近くでの刺殺事件や、トンガの海底火山の噴火については結構後からタイムラインで知ってびっくりしました。

ロイターが提供している各国の感染者数のグラフを見ていると、イギリスや南アフリカの感染者数は3週間で一気に増加、同じスピードで減少していることがわかります。ということは今の増加傾向は月末にはピークを迎え、2月後半には落ち着くのかな……と思うと多少は落ち着きますが(少なくとも連日連日、最大感染者数を更新したぞと言われ続けているよりは見通しが見えるのでそれよりは、ということです。こうした見通しの話はテレビでもわたしのタイムラインでもあまり見ない印象があります)、とはいえ病床は逼迫しているようだし今週半ばには……と思っていたら、首都圏および東海地方について「まん延防止」が適用される方針のようです。

経済を、社会活動を回さなければいけない、病院や学校やインフラを止めてはいけない。それは確かにそうで、その一方でわたしの属する場所で回せるものなどささやかなものでしかなく、例えば医療従事者の方の仕事を止めるわけにはいかないという切迫感などは文字通り凄まじいものがあると想像するしかないのですが、だとしても、そのために命をかけて働け、ということを、なんだか当然のことのようにこの社会はこの社会を構成するすべての人に求めるのだなと思います。ここでいう「社会」とは職場なのか政府なのか資本主義なのか、それとも別のなにかなのかはわかりませんが……。
コロナについて危機感のレベルが個人間であまりに違う、それ自体がストレスになるということは言われていますが、海外の状況を見ていても、結局のところ国の決めた基準以上に怖がることは許されないのだなあとぼんやり思います。もちろんコロナに限らず、一定の基準を示すのが国の役割、ではあるのですが。


404 not foundから、ほさきさんへ

2022/1/18(火)

遅ればせながら、新年快乐!
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。


命の危機を感じるうさぎ
命の危機を感じるうさぎ

新年に大きな本棚を買うのはとてもよいですね。天井までの本棚、うらやましいです。(この交換日記を交換する頃には整理が無事に終わっているのかな…?)
わたしはといえば、本棚からあふれた本をやっと少し整理しました。年末はまったく整理整頓できなかったので、今やっと、という感じです。

今の家に住んで長くなってきたとはいえ、再び移動するかもという可能性のもと、決まった範囲に収まる量だけ、と思って生活しています、が、だんだん限界を感じています。変化するのが常だとはわかれども、生きれば生きるほどどうしたって手放せないものもあらわれるものなんですね……読む読まないにかかわらず、そばにあってほしい本は確かにあるものです。

そういえば、わたしもコレド室町に先日行ってきました(yenさんがTwitterでおすすめしていたのを見て!)。
誠品書店で『言葉を失ったあとで』(信田さよ子、上間陽子)、『台湾文学ブックカフェ1 蝶のしるし』(呉佩珍、白水紀子、山口守(編)、江鵝(ほか著)、白水紀子(訳))を買いました。なんともお恥ずかしいのですが、小説を買うのは数年ぶりかもしれません…。

『蝶のしるし』のさわりだけ読んでいたのですが、普段読む仕事の文書などとはまったくちがうもので、やっぱり小説という形でないと書ききれないものがあるのだと思わずにはいられませんでした。こうしてすぐ構造でとらえて、その中身について踏み込んでいかないのはわたしのよくない癖ですが……世界はこれほどにも複雑な要素で成り立っている、と少し読んだだけでも感じて、わたしが普段いかに肌感覚を麻痺させて生きているか、こんなに細かく世界と対峙していないな、とそんな風に思ってしまったのでした。

2022/1/19(水)

わたしはすっかり感染者数のグラフを追わなくなって、人づてに今はこれくらいの数だよ、と聞くのみになりました。
普段の生活でできることはやっているため、これ以上はもうできることはないですし、どう読み解くべきかを明確に示されない情報(数字)によって、これ以上自分を消耗させたくないのが本音です。現状、感染者数が減っても、大きく増えても、個人でやることやできることは同じで、たとえ数が減ったからといって大きく変えていい行動というのも今のところなさそう、と考えています。

ここ数日、喫茶店で本を読んだり勉強するのはしばらくやめておこうかな、とか、今週末ライブがあったけれど行くのを取りやめようか、といったことを考えていたのですが、こういう日常の細かい選択も含め、個人での感じ方が大きく違うことはこの2年間でよくよくわかって(2011年の震災直後にも感じたことかもしれません)、目の前にいるひと、そばにいるひとがどういう基準でいるかに集中することが増えたなと思っていました。わたしの基準と相手の基準が違うとき、相手がどういった基準でいるかをまず知ること、そして自分の基準を伝えることにだけ集中するといったような。

それ以外の情報は自分自身の基準を作ることには使っても、人との関係においてはメインではないなと思います。そういったことを思っているので、同じ空間やつながりの中にいる、不安に感じているひとの基準を軽んじない、行く行かない、やるやらないも無理強いしない、不安に思っている人を非難しないことを徹底するのみになっています(自分とは異なる基準があったとしてもジャッジしない、といったようなこともあるかもしれません)。つまりは非常時なんだな、とばかり思います。

わたしはじっとしているほうだとは思いますが、これも「できることをできるだけやる」くらいの気持ちで、耐えきれないときは多少移動もしますし、それぞれ「これ以上はできない」という線がどうしたってあるよなあ、と思います。

2022/1/21(金)

昨年、会社で掲げていたお札やお守りを返すついでに自分も初詣に行ってきました。

勤めているのが小さな会社なこともあり、毎年年始に初詣をしてお参りをする行事があります(さまざまな事情で参拝できないひとがいる可能性もふまえ、あくまで任意参加です)。コロナ禍になってからは中止になっているので、会社を代表して数人が参拝するのみになっているのですが、今年は古いお札を持っていくのを忘れてしまったそうで、わたしが追って返しに行ったのでした。

わたしがいる規模の会社なんてちょっとしたきっかけであっという間につぶれてしまう、と常日頃思いながら働いているので、なんとなく神様に頼りたくなる気持ちはわかります。つぶれないでほしいとは思いますが、本当にこればかりはどうなるかわからない。

ただ、小さな会社だからこそ、わたしは居場所を得られた(用意してもらえた)のだ、とけっこう感じます。大きな会社に属していたこともありますが、集団生活も組織の中にある「当たり前」のルールもその集団で求められるレベルでは守ることができず、へとへとになりながら働いていたので、わたしのほうに合わせてくれたという意味で、今いる会社は問題はゼロではないけれども悪くない会社だなと思っています。おすすめはしませんが。

ここがポイントで、悪くない会社だとは思うけど、誰にでもおすすめできるわけではない、そんな話を会社の同僚ともしたのでした。どんな場所にもメリット/デメリット、合う/合わないがあり、自分にとっては合う≒悪くない会社だったけれども、他の誰かにとってはわからない、という思いはそれぞれにあるようでした。生活に困るようなことがあってはなりませんが、そういった基本のラインの話でなければ、あとは自分にとって合うか合わないかなのかな、などと思ったりもします。


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