2021/8/14 - 8/26 コントロールしたいという欲望 / たましいと地獄

404 not foundから、ほさきさんへ

2021/8/14(土)

陶芸教室に行ってきました。月に2回通うことがむつかしくなり、月1回のコースに変更したところ、一つの作品に時間をかけて取り組むことになり、手癖で作っていたところから少し抜け出せそうです。

いつも、きりの良いところで終わらせて、先生と少しおしゃべりするのですが、今日の話題はワクチン接種でした。先生はオリンピック前にはワクチン2回目まで済んだと言っていて、驚いていたら、区によってかなり進め方も進み方も異なるのだと教えてもらいました。ちなみにわたしと同じ区に住む他の生徒さんもまだぜんぜんワクチン接種には辿りつけていない人が多いとのこと。教室に通っている生徒さんの年齢もあるとは思いますが、やはりワクチン接種については多くのひとが大変な思いをしているのですね……。

わたしに関しては先日、無事に1回目が済みました。副反応も腕が少し痛んだくらいでぴんぴんしています。

2021/8/17(火)

実は先週から昨日まで、ほぼほぼ1週間夏休みだったのです。にもかかわらず、何もせず、日がな一日だらだらしていました。家で、何もできなかったよ……と話したら、お休みとは本来そういうものでは……? と言われました。それはそうなのですが、せっかくのお休みなのになんにもできないなんて! とついつい思ってしまいます。お休みこそ熱心に活動できたなら! 本はぱらぱらめくりましたが、さして読み進めることもできず……ル=グウィンの『文体の舵をとれ』、ジョナサン・ハイト『The Righteous Mind(邦題:社会はなぜ左と右にわかれるのか 対立を超えるための道徳心理学)』、武田百合子『富士日記(上)』をいったりきたりしながら、ちびちび読んでいます。

ジョナサン・ハイトの『The Righteous Mind』は、毎週読んでいるとあるニュースレターで紹介されていて、興味をもって読み始めました。まだ読み途中ですが、筆者によると人間の道徳基盤は、ケア/危害、自由/抑圧、公正/欺瞞、忠誠/背信、権威/転覆、神聖/堕落の6つに集約されるそうです。なかでも、アメリカの民主党がケア、公正、自由を軸に有権者にアピールするのに対して、共和党は6つの基盤全て動員してアピールしている、とされる調査結果が紹介されていました。

実際わたし自身も自分が物事を考えるときに何に重きをおいているかというと、ケア、公正、自由だとも思うのです。ただ、わたしがそういう社会を志向するとしても、目の前の相手は違う可能性がある。そのときにどうすればいいのか、何かヒントがほしいと思っています。黙るのではなく、迎合するのでもなく、何か、何かしらの言葉を発するための。ちなみに、いわゆる完全自由主義者・リバタリアンと呼ばれるひとたちは、ケアに関して、保守層と比べても非常に低いスコアが出ていることが書かれていて、考えこんでしまいました。

「お願いだよ。ここで仲良くやっていけるはずさ。必ず仲良くやっていけるはず。誰もが、ここでしばらく生きていかなきゃならないんだ。だから、やってみようではないか」(「The Righteous Mind」(ジョナサン・ハイト)ロドニー・キングの発言)

どんなひとも、生まれ落ちたからにはこの世界で、しばらく生きていかなきゃならない。移動、あるいは偶然の離脱はあったとしても、この世界に存在している以上は。それは当たり前のことでありながら、なんて途方もないことなんでしょう。わたしも、目の前の誰かも、遠いどこかにいる誰かも、存在しながら時間をともにしているのですよね。

2021/8/20(金)

夏休み中に1日稼働したので、代休をとってふたたび一日だらだらしていました。昼まで寝て、ご飯を食べつつ、『コロナ新時代への提言3』と『欲望の資本主義特別編 コロナ2度目の春 霧の中のK字回復』を見ました。

専門家がそれぞれの視点から語る言葉はどれも興味深く思えますが、語りがどのように変容してわたしの生活に届くのかな、とふと思いました。番組の作りだとも思いますが、どんな語りも、ひとや社会を前提に話されている。でもそれがわたしの生活と交わるときには言葉の形ではありません。さまざまな提言は政策に落としこまれ、生活のなかに影響という形で立ち現れます。そのときに、前提となることをどこまで把握できるんだろう。そしてあんまり前提を把握できず、ただただ現れる影響を前に右往左往しながらいくわけだよなあ、とも。

経済をまわそう、と語られるとき、株価の上がり下がりの話(をしている人もいるのかもしれませんが)ではなくて、それは実際には目の前の生活のことだ、と思います。経済というものが、自分の生存ともつながっているからこそ出てくる呼びかけだろうとも思います。ですが本当は、もう少し違う形でわたしはわたしの生存が保障されたなら、と思うのです。食べるもの、住むところ、着るもの。物質だけではなくて、仕事や、周囲のひととの関係。そういうものを通して感じる現在と未来に対する安心。そういうものがあったなら、とついつい願ってしまいます。でも未来に関してはどうしたってコントロールはできないので(起こってしまったあとに何かしらのことはできたとして)、未来をコントロールしようとする欲望はもう少し捨てたほうが良いんでしょうね……臆病で困ります。

すっかり運動不足で、頭でばかり考えてしまうことが増えました。yenさんの30分くらいのウォーキング、すごく良いですね。すっかりボクシングもさぼっているので、わたしもそういう時間をとろうかなあ。


ほさきから、404 not foundへ

2021/8/21(土)~23(月)

木曜日に二度目のワクチンを打ちました。
恐らく副反応は軽い方で、よく言われる発熱もなく、ひたすら寝ていました。ものすごい食欲が……ということもありませんでしたが、ごはんはおいしく食べました。
横になりながら『プリンタニア・ニッポン』の2巻や森見登美彦の小説を読んでいました。時折SNSをのぞくと接種当日にtweetした、接種済証はちゃんと保存したほうがいいと自治体職員さんに言われた件が恐ろしい勢いでRetweetされていて、その合間にフジロックの話題があちこちから流れてきていました。その流れでニール・ヤングがコロナを理由に主催するフェスの出演を断念したという声明文を読んだのですが、「俺の魂が言うんだ(My soul tells me)」という一節に、しばらく立ち止まってしまいました。たましい。
イベント主催者としての苦渋の言葉なのだと思いますが、その言葉を見た瞬間、なぜか以前読んだ、徴兵された兵士が上官から渡された銃を何度も何度も地に落とし決して手に取らないことで徴兵拒否の意思を示したというエピソードを思い出しました。

公演関係者に陽性者が出たため公演中止、というニュースは、先月半ばから少しずつ増え続けている気がします。フジロックに出演するミュージシャンたちの言葉はタイムラインでは随分批判されていましたが、もし同じような場に自分が立った時、観客の前で経済保障や公衆衛生対策を含む構造の問題についてどこまで言及できるだろうと考えてしまいます。昨年、演劇関係者達が講演自粛に対する経済補償についてSNSで言及した時(他にもいろんな要素があったとはいえ)、炎上と言っていいほどの強い批判を受けていたことなども思い出します。
あの頃からパンデミックに関するフェーズはずいぶん変わって、無観客配信という形態もずいぶん一般的になりましたが、構造ではなく人が、それも苦しい立場の人がずっと矢面に立たされ引き裂かれ続けている、そんな気がしてなりません。

たくさんいるし
いろいろいるもの
みんなでやれば
できないことなんて
なんにもないよ
 (「プリンタニア・ニッポン」(迷子)2巻 より)

へろへろと出勤して帰宅した夜、先週末に出た合唱祭の振り返りtwicasを聞きました。
こうすれば安心、許されるという基準はどこにもないので、何をどこまで許すかという基準はわたしの中でいつも簡単に揺れてしまいます。ぶれっぶれです。
でもいつかあるはずの「次」についてみんなで当たり前のように話すのは、灯った明りが増えていくのを見るような、とても楽しいことでした。

うさぎ げんき。

2021/8/24(火)

熱中症を警戒するほどの暑さがぶり返してきましたが、日が沈むと風だけは秋の気配です。とはいえ蒸し暑いので、外でのお散歩は今週あまりできていません。
家の鉢植えもみんなまたぐったりしてしまっています。

DHCとムーミンのコラボ(とそれに対する批判とコラボ中止)ニュースに、ふと思い出してtweetした映画「トーベ」のチラシが妙に拡散されていてびっくりしています。スカートを跳ねあげ踊るトーベ・ヤンソンの影が、踊るムーミンになっているポスターです。ムーミンシリーズ、もったいなくてまだ2冊しか読んでいないのですが、また読みたくなってきました。

つけっぱなしにしていたテレビがパラリンピックの開会式を中継しだしたので途中から終わりまで、ぼんやり眺めていました。フロア一面を駆ける光の演出や若冲のデコトラの中からギタリストが現れる演出は確かに素敵で、とはいえ中継の途中に挟まる医療ひっ迫の報道と、アナウンサーやえらい人達の語るパラリンピックの精神との落差は白々しくもすさまじいものがありました。各国の選手団のユニフォームは素敵でしたが、付けているマスクは高機能マスクから不織布、布(重ね付け?)とばらばらで、もしかしてこれが国の格差なんだろうか、とふと考えて怖くなりました。世界規模で見れば、日本はワクチンが確保されている国に分類されるといいます。


2021/8/26(木)

感染拡大の影響で練習場所が確保できないため、9月の歌の練習は中止するとの連絡が来ました。とりあえず音取りと発音チェックを頑張らねばなりません。
こういってはなんですが連絡が来たとき最初に思ったのが、メンバーこそ違うとはいえ8月の合唱祭に参加して本当によかった、ということでした。こういうことの積み重ねで帰省したり出かける人がいる一方で、それでも我慢し続けている、せざるをえない人がいる。
批判されているフジロックも個人的には「PCR検査が気軽に受けられない中、できる限りの注意を払って開催されたイベント」なのだろうなと思っています。少なくとも欧米のように、PCR検査陰性をイベント参加条件にすることは今のこの国ではできません。マスク、消毒、黙食と密回避、そしてワクチン。個人や民間が自分で切れる手持ちのカードは少なくて、それでもその中でどうにか、やりくりせざるをえない。
一応在宅勤務が推奨されているとはいえ、「PCR検査が気軽に受けられない中最大限の注意を払って」出勤し、生活するわたしの日々は、極論フジロックと何が違うのだろうと思う時があります。

久しぶりに短歌の連作を組んでいます。短歌を詠むより連作を組む方が楽しかったのを久しぶりに思い出しました。一応去年も連作を作っていたはずなのですが、なんだか恐ろしく久しぶりのような気がします。


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