404 not foundから、ほさきさんへ
2021/5/22(土)
詩の講座へ行ってきました。詩を読み、その場で瞬発力を持って何かを語ることのむつかしさを改めて感じています。こういうものを受け取りましたというような話を、なんとかしてはみるものの、だからなんなんだろう、とも思ってしまったりします。話している言葉がぜんぜん正確でないことだけはわかります。
わたしがうまく読めなかったとしても、その詩に良さがないわけではありません。さまざまな視点によって詩の核心は見出されるだろう、と思いますし、わたしが「光をうまく当てられない」と話すことに何の意味があるでしょう。でも単純にわたし自身の見出し方、読み方のつまらなさを感じているから、恥ずかしくって理屈をこねているだけかもしれません。
こういうことは、訓練によってできるようになるものだとばかり思っていましたが、そんなこともないのかもしれません。何かしらの規則によって、読んだふりをしてしまうこともありますが、話しながら苦い気持ちになります。もっと瞬発力と想像力がほしいです。
2021/5/23(日)
ワクチンの予約について。
わたしの母は、だいぶ前に6月に入ったらワクチン接種できることになったと言っていたので、人口が多いところほど今回の件は大変なのだと思います(給付金の時も同じかんじではありましたね)。予約制ではなく、適宜割り振って都合が悪い人は振替予約をする形にしたらよかったのではと思いますが、都市部だとそういうのはむつかしいんでしょうか。
2021/5/28(金)
仕事が山場を迎えていて、まったく気が抜けません……。
2021/6/1(火)
おわっ……おわった!!! 数か月関わっていた大き目の仕事がやっと収束に向かいつつあり、脱力していました。いやあ、忙しかったです。時間の拘束もですが、ずっと気にし続けないといけないのがしんどく、区切りがつけられそうなのがうれしいです。
本を読んだり、なにごとかを考えたりするには気持ちの余裕と時間がなくてはできず(できるひともいるのかもしれないですが、わたしにそんな能力はないのでした)、まずは少し休みたいと思ったりしています。
そんななかでも友人が突然商業BLにはまったため、友人が好きという「年の差もの」をピックアップしてはせっせこおススメしていました。いまやほぼ電子書籍で所有しているため、貸せないのが難点です。今度タブレットもっていくからね、なんて話したものの、そうやって遊べるのはいつになるでしょう。まだまだ遠いことのように思います。
ほさきから、404 not foundへ
2021/6/2(水)
実家の母は昨日防衛省でワクチンを接種してきたようです。あまり待たず接種できたとのことでした。ニュースによれば今月21日以降は職場や大学での接種も認めるようですが、なんだか全然実感がわきません。
身近な人が恩恵を受ければ自分もまた同様の恩恵を受けられそうだと感じる、そういうメカニズムなのだろうと思いつつ、ともあれ身近な人がワクチンを接種できて良かった、とほっとするこの気持ちは、色々あったけどオリンピックやってよかった、といった気持ちへ続く敷石のような気もしてしまいます。
メロディと歌詞の関係についても、元々メロディをつくったあとに文字数も考えながら歌詞を書くんですけど、母音をメインに考えていくんですね。メロディを思いついて歌詞がまだない状態で歌っている時に、だいたい母音がかたまっていってそこからその母音に沿って言葉の選び方・置き方を考えていくので、どうしても語呂が大事なんです。イメージした子音や母音が違うと良いメロディに思えなくなってしまうんですよね。 (Japan billboard インタビュー 「時代、そして自分自身と向き合いながら。ポップミュージックの最前線を更新し続ける、2020年代の宇多田ヒカル」)
ネットでみつけた
宇多田ヒカルのインタビューがとても面白かった。わたしは熱心なファンではないし、まして音楽シーンや今のはやりのサウンドについては何もわからないのですが、上に引いた母音をメインに書くという話は、彼女の歌詞がきれいに韻を踏んでいるという指摘よりも個人的には納得できる……というか、しっくりくる気がしました。メロディーという枠があり、母音という枠があり、そこに言葉がのっかっていく。でも個人が書く以上、乗せられた言葉が完全にランダムな無意味なものになることは決してありえず……。音楽は言語のようなものだから今生きている人たちの共通認識の上に成り立っている、という話も面白かったです。
そういえば以前、彼女が歌詞というか詩について、萩原朔太郎の「詩について」を読んだらすでに全部書いてあった、と言ったという話を以前twitterで見かけた記憶があります。
2021/6/3(木)
通りかかった道の塀の向こうに、小さいけれど枇杷の実がなっているのをみかけました。18時以降の空はすっかり夏の夕焼けです。
従業員千人以上の企業主体でもワクチンを接種できる、ただし正社員ではないひとの扱いは各企業に任せたい、という話になったようです。
ワクチンの使用期限や企業の人事管理などの理由もあるのでしょうが、ご両親のワクチン予約に苦労したというフォロワーさんが、国のやり方は健常男性ばかり優遇しているように見える、と呟いていました。健康で、正社員で、ある程度の大きさのある企業に所属していて、ネットが使えて読みにくい書類も苦にならない、シスジェンダーの結婚する男性と、その家族。そこから外れるとあっという間に守ってもらえなくなる、そんな構造にわたし自身が気付いたのは多分就職活動をして働き出してからで、つまりもうずっと存在するものではありますが、こういう状況になるとグロテスクさは更に増します。
外でずっと、つよい風が吹いていました。
今の部署はお昼休みになるとテレビをつける習慣があります。ちょうどいい位置にあることもあり、お昼休みはいつもNHKの朝ドラを見ています。
気仙沼などを舞台にした「おかえりモネ」がはじまってから、テレビから聞こえる声のトーンがずいぶん落ち着いたな、と思います。表情とか視線とか間で見せる演出はお昼寝をする人もいる職場で視聴する身としてはせりふの全部を聞き取れないこともあるのですが、映される空がとてもきれいなのと、ちょっとした間や沈黙に、台詞全ては聞き取れなくてもあ、と思うことがよくあります。たぶん、大事なことは小さい声で話すドラマなのだと思います。
ドラマは昨日今日と、震災の時に主人公がどこで何をしていたかが描かれていました。あのときそこにいなかった、大好きな音楽が役に立たないと思ってしまった、という主人公の設定は多くの人を共感させるためのうまい設定だなと思いつつわたし自身も、知っている、それに近いものをわたしも知っているよと、観ながら思ったのでした。
それにしてもドラマのサイトを見たら役者さんがドラマのために数か月でトランペットや能管をマスターしなければならなかったと言っていて、『ガラスの仮面』の世界って今でもあるんだなあとしみじみしました。
2021/6/5(土)
そういえば関東って梅雨入りしたんだっけ、と思って調べたら、週明けから梅雨入りの見込みのようです。梅雨でもないのにここ最近の湿気は何だったのか……。
『アカシアの雨が降るとき』(作・演出 鴻上尚史)を観てきました。生のお芝居を観るのは昨年十月以来です。二百人程度の小さな劇場だったのですが、行ってみたら最前列で役者さんの顔がよく見えました。
劇の始まる前、ワクチンの接種も始まっているのにあまり前向きな気分になれないのはなぜだろう、やっぱりオリンピックのことがあるからだろうか……と話していたのですが、開演前の注意事項、携帯を切ってくださいなどのお決まりのフレーズの後に演出家さんがしれっと、オリンピック、どうなるんでしょうね!と言って締めて、噴き出してしまいました。あれは絶対、「いい笑顔」で言ってた気がします。
この演出家さんの公演はいつも、客席に演出家さんからのごあいさつの紙が配布されるのですが、去年公演が中止になって、それから一年経ってもこういう状況だとは夢にも思わなかった、と書かれていて、中止になったその公演チケットを自分も買っていたのを思い出しました。こういう状況でもできること、この先に繋げるためにたくさんのひとが現在進行形で努力していて、東京に住む私はその恩恵によって、どちらかといえば観たいものを観たり、やりたいことをやれている側に分類されるのでしょうが、それでも何かの折にふっと、でも何をどうしたってもう2020年は戻らないのだと気づいてさびしくなることがあります。
急に体制が変わって公演中止に追い込まれるかもしれないという状況によって公演ができなくなるのもつらいけれど、そういう状況下で公演をいくつも打ち続けるのも、たぶん結構しんどいことではあるでしょう。
劇場に来ていただいたことに、本当に感謝します。あなたと劇場で会えること。それは「人間らしい生活」 だと思うと言ったら、母親はうなづいてくれただろうかと思っています。
(鴻上尚史『アカシアの雨が降る時』ごあいさつ より)
それにしてもコロナ前はほとんど毎週末だれかに会っていて、それが突然なくなったのだ、と今更気が付きました。終演後ノンアルコールバーで飲んだ、ノンアルコールのワインと日本酒のサングリア的な飲み物がおいしかったです。
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ノンアルコールバーで大人の顔の(つもりの)うさぎ達。 |