404 not foundから、ほさきさんへ
2021/4/25(日)
昨日は詩の講座でした。
いまわたしは詩を、かなり自分の経験に引きつけて、現実にあったことを入り口に書いているのですが(それは言葉を引き出してくるのに体験を頼っているためです)、講座のなかで架空のイメージによって出来上がっている作品に触れると、すごく勉強になります。そしてどうしてもまだ論理によって書いてしまっている部分があるのでしょうね。読み解きやすくために表現を犠牲にしている部分がちょこちょこあり、先生からアドバイスをいただいては楽しく頭を抱えています。
そして講座のはじめに、運営の方から緊急事態宣言に伴う休講の可能性についてお話しがありました。教室の入っている百貨店が緊急事態宣言によって休業になると、必然的に講座も休講になるとのことでした。なので昨日は運がよかった、ともいえますが、全ては緊急事態宣言次第の状況に、いったいなんなんだろう、と考えてしまいます。感染拡大しているのだから、緊急事態宣言が出るのはしかたのないこと、なのかもしれませんが……別れ際に、来月無事会えますように、と声をかけする状況は平時ではないのだと改めて思ったりしました。
この一年、市井のひとたちはそれぞれの環境や状況のなかでできる限りのことをしてきたのではないでしょうか。少なくともわたしの実感としてはそうです。なのでいつかも書きましたが、やはりここからは政治の問題であって、政治はいったい何をしてきたのか? と考えてしまいます。GoTo事業とはいったいなんだったんでしょう。聖火リレーをやっている場合なのでしょうか。そもそもこれからオリンピックをやるんだって……?
そんな気持ちで家にいても憂鬱になるだけなので、食料品の調達がてら散歩にでかけました。食料品を扱うお店以外、全部休業の状況を目の当たりにして、なんともいえない気持ちになりました。よく晴れていて、薔薇がきれいに咲いていて、それこそ気持ち良い日だといってもいいはずだったのに、現実はそうではありません。
2021/4/27(火)
我が家のうさぎはリボンをつけたい!と叫びますが、ずっとつけているのは嫌なようです。人前に出るときにだけつけたい、というやつなのかな。やっぱりちょっと見栄っ張りなのかもしれません(ちがいます、おしゃれってやつです)。
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つい先日、新今宮エリアブランド向上事業の一環で制作されたPRエッセイのことが問題になりましたよね。作者からなされた経緯と今後についての、説明で使われた文体がポエム調といった意味の批判を見かけ、引っ掛かっていました。文体としては非常に近しいケースもある、とはいえ、ポエムなどと言わず広告的な文章の一部として批判するべきではないか、と思っていました。
広告的な文章とは、人の感覚を刺激し、購買意欲を抱かせたり、対象のイメージアップをはかることを目的に書かれたものです。その機能自体が全面的に悪というわけではないですが、現実にある問題を隠してしまうケースはあり、今回の場合、真摯な対応をするのであれば、せめて謝罪文(に近しいもの)に関しては、広告的な機能は封印したほうがよかったのではないでしょうか。行われたこと、批判も含め大したことではない、という印象を抱かせるものとして、あの文章は機能した部分がある(作者の意図は不明ですが)。言い過ぎでしょうか。
日常生活において「ポエム」は笑いの文脈で使われていることがあります。詩をつくっています、というと、それだけでちょっと笑われたりする。
逆に「広告」はどうでしょうか。「広告を作っている」。それに対しては賞賛に類する言葉が引き出されるのが自然なように感じないでしょうか(それは「広告」がようはわかりやすい「利」と結びついているからなのかな)。その場面は想像しやすいし、わたしがいる現実はそっちのほうが近しいと感じます。
詩が書いているのは広告ではほぼ題材にされない、もっと表に出てきづらいものだったりしないか、と思ったりするのです。それもまたざっくりとした印象かもしれません。自分の力点がそこにあるだけかもしれません。
だから、というわけではないのですが、いや、やっぱり、だからわたしは、広告に対する批判は、あるいは広告的手法に対する批判は、広告こそが引き受けてほしい、と思ってしまいます。目的も表現しているものもまったく違うはずなのに、なんとなく似通ったものとして「ポエム」が引き出され、ネガティブなものとして印象づけられていくのはやはり嫌だと感じます。
2021/4/30(金)
わたしの属する会社はとても小さく、組織もかなりフラットで、とにかく自律的に動くことを求められます。そのなかで他者の仕事をどこまで見て、どう評価したり指導したりすればいいのか苦慮していたのですが、先日から読み進めている『「利他」とは何か』のなかで書かれていた、「安心」と「信頼」が「不確実性」の1点において真逆のベクトルを向いている、ということが良いヒントになりました。
本のなかでは障碍者や認知症ケアの現場において、やさしさから先回りで行われるケア(たとえば、割りばしを自ら割れる人に対して割りばしを先に割ってしまうなど)が当事者の自立を阻み、自己肯定感を損なってしまっているケースに触れていました。
ここに圧倒的に欠けているのは、他者に対する信頼です。目が見えなかったり、認知症があったりと、自分と違う世界を生きている人に対して、その力を信じ、任せること。やさしさからつい先回りしてしまうのは、その人を信じていないことの裏返しだともいえます。
そして、社会心理学が専門の山岸俊男氏の信頼と安心に関する文章などを参照しつつ、以下のように説明が続きます。
安心は、相手が想定外の行動をとる可能性を意識していない状態です。要するに、相手の行動が自分のコントロール下に置かれていると感じている。
それに対して、信頼とは、相手が想定外の行動をとるかもしれないこと、それによって自分が不利益を被るかもしれないことを前提としています。つまり「社会的不確実性」が存在する。にもかかわらず、それでもなお、相手はひどい行動をとらないだろうと信じること。これが信頼です。
『「ケア」とは何か』第1章「うつわ」的利他ーケアの現場から 伊藤亜紗・編)
自立かつ自律的行動は何に支えられているか、それはケアする側の「信頼」による部分が大きいのかなと感じました。ケアする側が自らが「安心」したい気持ち、つまり相手を支配したい気持ちをきちんと抑え、相手を「信頼」し、相手にゆだねることで自律した行動はとれるようになるのかもしれません。
わたしはどうにも小心者なので、「安心」をとりがちです。安心に重心を置きすぎていると、小さなミスも、とてつもなく大きなもののことのように感じます。だから余計にやきもきしていたのかもしれません。自分のミスや失敗もそうやって許さずにやってきてしまったのかも、とも思っていました。
仕事に失敗はつきもので、実際に起こった失敗もよくよく考えれば、どれもたいしたことはありません。大いに失敗したらいいんだと思います。
明日からいよいよ本格的なゴールデンウィークです。何をするか、まだまったく決めていません。とにかくゆっくり寝たいなあとは思っています。
ほさきから、404 not foundへ
2021/5/1(土)
五月は薔薇の季節、なのにすっかり夏の暑さです。先週バケツに浸けたベランダの薔薇はあっという間に花を開かせ満開になり、もう殆ど散り始めています。今年の薔薇は花付きも良いが時期が早い、という話をあちこちで聞きます。
低気圧もあってか、ご飯を食べてはお昼寝、を繰り返していました。404さんはゆっくり寝られましたか。
法事が終わって土曜日に帰宅、月曜日からへろへろと出勤しつつ、旅行の片付けが進まなくて不甲斐なさを感じていたのですが、いやいや世の中には初七日とか四十九日とかいった概念があるのだから無理はするなと言われ、おおそういえば、と妙に感心してしまいました。ちなみに祖母の法事は百か日まで、まとめて法要を終えています。ローン一括払いのようなものですね。
お昼寝から目を覚ますと親族からLINEが来ていてました。先週見た五稜郭の桜は樹勢が衰えていたため、昨年初の「お礼肥」が撒かれたのだそうです。そこにコロナで花見客が減り、桜の根が傷まなかったのもあって今年の花ざかりになったようです。
忘れないうちに旅行中の写真を親族で共有しておこうとオンラインのアルバムを作ったのですが、どちらかというとご飯の写真の方が大量に集まり、なんだか笑ってしまいました。
お昼寝ばかりしていたと書きましたが、午前中に地震、夕方から雷雨と、結構落ち着かない一日でした。
2021/5/2(日)
GW中は8時ちょっと過ぎから放送している、NHKの子ども科学電話相談を聞くことにしています。アナウンサーの方はもちろん、専門家の方と質問する子が毎回、丁寧で朗らかな声で「おはようございます」と挨拶するのが好きです。みなさん、とiPhoneから聞こえるアナウンサーの声に、うさぎ達もまじめにごあいさつを返しています。恐竜に詳しい子というのは本当に詳しいんだなあと感心したり、花というのはあれはもとは枝なのだ、といった話にふと立ち止まったりします。
そういえば去年はこの時期何をしていたのだろう、と考えたのですが、たぶん大掃除をしていました。そもそも大掃除なんてのは寒い大晦日でなく気候のいい五月にでもやるべきだという昔の文豪の話を真に受けてのことですが、今年はそんなやる気もなく、といってどこへ行く当てもなく、どこまでものんびりした時間が流れていきます。
午後、ふらふらとお散歩をしました。この時期は住宅街を歩くだけで薔薇をはじめ丹精込めた花が見られますが、夕方になるとあちこちからジャスミンの香りがします。あまり得意な香りではないのですが、湿気を帯びた空気の中に香るとつくづく熱帯の花だ、と思います。
2021/5/4(火)
テイクアウトしたコーヒーを飲み切って歩いていると古楽器店(ブックオフの楽器版みたいなお店です)を見かけたのでふらりと入ったら、ギターの試奏が聞こえてうわ、となった自分がいました。生の、楽器の音。
ふらふらと店内を歩き回りながら、えっこれがこんなお値段で……いやいやわたしに楽器を買う甲斐性はありませんよ……というのを繰り返していました。楽器が、本物の楽器が、こんなにたくさん。そんなことを思っていた気がします。なんだそれは。傷があるからと転がされていたマンドリンの弦を弾いてみると抱えていた共鳴胴に音が響いて、当たり前のことなんですが感動してしまいました。
たとえば震災の時、あらゆる歌が震災詠に読めてしまったとか、空想的な短歌に惹かれなくなったといった話を時折思い出します。おそらく今も近い現象は存在するのでしょうし、私もそういう現象の中にいる気がします。美しく強靭な幻想が好きでそれに救われてもきたのに、自分の書くものはどんどん(あるいはずっと、最初から)そうではないものになっている気がするのです。
先日MさんやKさんとオンラインでおしゃべりした際、最近新しい歌集を出された松野志保さんの短歌について、仕事で疲れたときの飴玉のように読む、とMさんが言っていて、そうだよね、それでいいよねと皆で頷いていました。短歌のある種の陶酔感は危険なものだという意見にも賛同しつつ、とはいえ短歌をほとんど読んだことのなかった私はそこにこそ一番惹かれたのではないかとも思うのです。
いずこへと尋ねれば手を差しのべて「この世のほかであればどこでも」 / 松野志保『われらの狩りの掟』
2021/5/5(水)
昨日からしばらくTwitterを見るのを控えることにしました。
いつまでも中止にならない五輪に行き渡らないワクチン、大阪の感染拡大、インドの変異株、入管問題に憲法改正。なんだかタイムラインのニュースがずっとしんどいという話をしたら、あまりニュースを見すぎない方がよいのではと言われたのと、ちょうどその時期にフォロワーさんでアカウントを削除された方がいて、考えてしまったのでした。思えば去年の今頃はあまりニュースを見すぎないようにと、まさしく私自身が親族に偉そうにアドバイスしていたのですが。
働き出してからずっとネット依存気味なのは自覚していて、このあたりについて考えだすと自分の人間関係構築能力とかそういうことについて及んでしまうのですが、とはいえ携帯からアプリを消して色々仕掛けをしたら意外といつも(SNSから距離を取ろうと何度か挑戦しては失敗しているのです)より落ち着いたもので、見たいという気持ちが本当に今減退しているんだなと実感しました。今は共有結晶の方のアカウントを動かす必要がない、というのもあります。考えてみると私がTwitterをやっている期間の半分以上は、あちらのアカウントの対応をしているんですね。同人誌の在庫がまだあるのはもちろん知っていますが、いろんな意味で「過去」になってきたな、と感じます。
それはそれとしておそらくコロナのことに限らず、(当事者でない自分が)「目をそらす」ことについて私は罪悪感を持ちがちで、ある種自傷や自罰のようにタイムラインを見ていた部分があったのではないかという気がします。
そういえば404さんの書かれていた「安心」と「信頼」の話、私自身も職場その他で「安心」を取りがちだなと反省しつつ、国に対しての「信頼」を誰も持てなくなったがゆえの「今」なのかもしれないと、ふと思いました。
法事で白骨の御文等を読んだ影響もあるかもしれませんが、そもそもコロナが無くても人はいつ死ぬかわからないのだよなというのはここ数日しみじみと考えていたことです。交通事故とか、コロナ以外の病気とか、本当はいくらだってある。それでも今日の先に明日は続き、家族や友人と共に過ごせると根拠なくこの世界を信頼して誰もが生きている。それが、コロナによってそこに根拠はない、と真正面から言われてしまった。そして今もずっと、言われ続けている。
もちろん、コロナの問題は簡単には解決しないでしょう。それでも昨年から各国の指導者の在り方について論じられているのは恐らく世界への「信頼」が崩れてもコロナの対策を行うべきもっとも基本的な組織、つまり国単位への「信頼」があればずいぶん違うからでしょう。既にいろんな人が言っていますが、コロナのことが不安なのと、コロナのこともコロナ以外のことも不安なのとでは心持が大きく違ってきます。
今のタイムラインは「安心」したい、できない、この状況でできるものか、という声があちこちから響いている気がします。そういうタイムラインを作ったのは他ならぬ私……かもしれませんが、とはいえ、今の状況を生み出したのはコロナだけではないはずです。
こういうことを考えるとき震災直後、放射能についての議論を思い出します。結局のところ私は「当事者」ではなく切実に物を考えてはいなかったのではないか。そんなことを。
仕事をすれば嫌でもインターネットにつながったパソコンを触らざるを得ないので今後SNSにどこまで触れないですむかは微妙なところですが、とはいえ今日はひさしぶりに読書が捗りました。
ついでにとようやくネットフリックスで見た、「映像研に手を出すな!」がとても良かった。日常から膨らんでいく想像、好きとか面白いとかやりたいとかだけで走っていく「女の子」……と書くとあの作品の雰囲気を壊してしまいそうでちょっと躊躇ってしまう、ともあれ3人の高校生たち。テレビ放映時、金森氏が人気ぽいなーと思っていたのですが、なるほど、と納得しました。台詞がいちいちかっこいい。
2021/5/6(木)
お昼頃、衆議院で国民投票法改正案が可決されたようです。
実家から、母の日のプレゼントが無事届いたとメールが来ました。台湾のちょっとかわいい漢方セットを送ったのですが、気に入ってもらえたようでほっとしました。コロナのため昨年はずっと会っていなかったのが先日の法事でいきなり数日行動を共にしたので、なんとも距離感が不思議な感じです。
昼食購入を兼ねて散歩していると「若い人も重症化します、外出を控えてください」という声が聞こえました。ああ東京都の広報トラック(と言うんでしょうか)か、昼間も走ってるのか……と思ったら、水道局のミニバンがスピーカーを付けて走っていました。
緊急事態宣言は五月末まで延長になるようです。ニュースを見た瞬間チケットを取ったいくつかの公演が瞬時に脳裏に浮かんで、大丈夫、大丈夫、と息を吐いていました。
演劇などの公演のプロデューサーには不眠や鬱になる人がいる、というエッセイを昔読んだことがあります。公演は何か月も先で、その間に役者が不祥事を起こすとも限らない。何かが起こって駄目になる可能性なんて考えだしたらキリが無くて、それで眠れなくなったりする人がいるのだ、ということでした。ましてや今は、です。
気圧や気温の激しい変動が自律神経を狂わせるように、緊急事態宣言とその解除の繰り返し、あるいは生活の中で、例えばGWは外出を控えるけれど職場にはいかなければいけないというような先の見えない繰り返しは、それだけで辛いなと感じます。