2021/1/23 - 2/5 わかりたい / 立春

404 not foundから、ほさきさんへ

2021/1/23(土)

現代詩の講座でした。12月に参加したのは単発の講座で、今回から月に1回通う形です。詩人の川口晴美さんに学びながら、参加者の持ち寄った詩を読み、もっと伝わりやすくするにはどうするかとか、推敲のポイント、あと見え方の演出などについてアドバイスをもらえます。そして参加者同士でも感想のようなものを言い合ったりします。

やっていることは歌会とそう変わらない気がするのですが、「選」がないことが気楽さを呼んでくるように思いました。わたしは「選」をするとき、どこか「好き/嫌い」とか、「話しやすさ」で選んでしまっていたように思います。そうしないと話すことができなかったからです。話すために歌を選ぶのは、なかなかどうして居心地が悪かった。それはわたしの未熟さともいえるでしょう。選ぶときに自分がそういった基準を使っていたことに、うすうす気づいていましたが、現代詩という少し異なるフィールドに一歩足を踏み入れただけで、見えてくるものがあります。今となっては、歌会においても、もう少し違う心の動かし方があったのではないか、と感じます。好きか、嫌いかはただの結果であって。

現代詩は、わたしがこれまで使っていた「好き嫌い」や「話しやすさ」をいったん横において、作品の造りについて話しやすい気がします(そもそも短歌よりも長いので、全体像を把握して判断するのに時間が必要です)。先月の講座でも、とある有名な詩人の詩に対し、「この詩を好きですか」と問われ「好きかどうかはわからないです」と答えたのですが、短歌のときによく使っていた基準が使えなくなる、というのもおもしろく感じています。

そうそう、『あしたのあした』(史也)。
わたしも読みました。すごくよかった。性愛をゴールとするたくさんの作品があるなかで、『あしたのあした』が示してくれた関係は、現実にはあるはずなのにあまり描かれてこなかったものだし、とても身近なものですね。そしてフィクションのなかでははじかれがちな、すみっこに置かれがちなものだと思いました。

2021/1/24(日)

なんとなくだるくて、ゲームをしたりしてごまかしていたのですが、夕方いよいよ熱っぽくなってきて、風邪でも引いたか!? いや、遠出したからもしかしたら!? と思ったのですが、単純にいつもの延長で、身体と頭の調子がよろしくないだけでした。

気持ちが落ち込んでいるわけではなかったので、頭のほうからくる不調とは思っていなかったのですが、ちゃんと布団に入って横になってたららくになって、こんなに気持ちが元気なのに身体が自由にならないとかあるんだな、とぼんやりしていました。わたしの判断より身体の反応のほうがずっと優秀です。えらいぞボディ。

遠出、と書きましたが、わたしは結局、宝塚歌劇を観にいってしまったのです。観にいってよかったとは思っています。だけれども、いまが非常事態であることを改めて感じました。新幹線でいくら換気されていますとアナウンスされても、そばに話し続けるひとがいれば不安になるし、物を外で食べる気にはあまりなれませんでした……とはいえ、他者にとってはわたし自身もまた脅威だったんだろうな、と今になって思います。(そういうなかでうさぎを連れて行ったのは本当によかった! ひとりではあの不安を乗り越えるのはむつかしかった)
友人がテイクアウトできるおいしいパン屋さんを教えてくれたので、そこで夕飯を買ったり、おいしいカヌレのお店を教えてもらってお土産にしたりしました。楽しくなかったわけではありません。楽しかった。でもそれ以上に、不安でした。

いまGoToキャンペーンが継続されていたとして、旅行に出かけても、これまでと同じ楽しさを感じられたどうか。収束してから旅行したほうが、ずっとずっとたのしいし、安心できる。当たり前のことなのにやっぱり実感は、遠いなあと思います。

2021/1/25(月)

「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』(山鳥 重)を読了しました。友人が読んでいておもしろそうと思い読み始めた本ですが、思いのほか、自分が大学で勉強するにあたって「勉強してはいるもののわかってない気がする……」と感じていた気持ちに納得感を与えてくれる本でした。試験をクリアするためではない勉強をしたいのにできていない、と漠然と思っており、それは「もっと深く理解したい」という気持ちだったのだと思います。それはどういう状態かというと、ただ知識として知っているだけではなく、使える状態になりたかったのです。

調べたり考えたりしても、どうやっても知りえないこととは別にして(それこそ「運命」のような。わたしは「運命」を支持してはいませんが……)、人間はどのようにして「わかる」という感覚を得ているのか、そのメカニズムを知ることで、どうやったら理解を深められるのか、ヒントをもらったように思います。

大学の今期のテストも無事に終わりました。わからない、で止まるのではなく、もっと理解したい、という気持ちがあってはじめて踏み込んでいけるんだと思ったりしました。

2021/1/28(木)

同居人がもらったまま仕舞ってあった、体重体組成計をついに開いてしまいました!
体重だけではなく、体脂肪率、内臓脂肪レベル、基礎代謝、骨格筋率やらなんやらもう最終的には体年齢まですべて数値化され、わかってしまいます! なんておそろしいものが世の中には存在しているんだ! 体重計に乗ったあと、しばらく起き上がれませんでした。

それはそうと100分de名著の『資本論』。4回まで見終わりました。デヴィッド・グレーバーの言った「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」はそもそも、広告やSNSでの口コミなどに煽られて「物を買う」自分自身の行為によっても、生み出されているような気がしてなりません。「必要なもの」は「最低限のもの」ではないとは思うのですが、それを考えるためには「豊かさ」の基準もまた、考えなおす必要があるのかもしれません。エコに配慮しているよ、だから少し値段高いけど我慢してね、と謳う商品を安心してたくさん買ってしまう行為は、解説者の斎藤幸平さんに言わせれば「ダイエットコーラをがぶ飲みしているのと同じ」とのこと。「買う」という行為と、目の前の「商品」に対し、自分にとって本当に必要なものなのかどうか、その問いかけが重要なのでしょうね。

この「必要」という基準が「役立つ/役立たない」に重なり合ってしまってはあまりよくないのだとも思います。わかりやすく役立たないけど必要なものも、実際にある。そうしてわかりやすく役立たないものを、いやこれは役立つんだ、というロジックに乗せてしまうのもあんまりしたくないのです。

ただ、わたしにとっては、必要。
そこでとどまりながら、問いかけながら、ものを手にしていく。消費をゼロにはできないのだから、せめてそういうことを意識しながら物を迎え入れたいと思ったりしていました。


ほさきから、404 not foundへ

2021/1/30(土)

自民党の全職員がPCR検査を受けることになったというニュースで、金曜日からタイムラインは騒がしくなっていました。吐きたくもない罵詈雑言が体の中に沈殿していくしんどさは去年の夏頃のしんどさにも似ている気がして、いやな感じです。
それはそれとして肩や首がばきばきですねとまた言われました。寒いからと運動をさぼるとすぐこうです。

北海道や北陸の方は昨年末から豪雪で大変なことになっていましたが、花屋さんの店頭は一週間ほど前からずいぶんと春めいてきています。木曜日の午後に降った関東のぼた雪も、一日であっという間に溶けてしまいました。

2021/1/31(日)

もう無理、ということで美容院に行きました。帰りに寄った、台湾茶のスタンドのお茶が濃くておいしかった。美容院でもずっとマスクをしているので、諸々終わるとかなり喉が渇きます。

年末に開設したサイトに短歌の連作を新しく公開しました。それでどうということはないのですが、年単位で抱えていたものを手放すと随分すっきりします。

404さんの書かれていた詩の講座と「選」の話。歌会、というシステムは短歌の世界のなかでも不思議な存在のひとつだと思います。例えば小説などでもオンラインコミュニティで互いの作品を評し合ったりといった取り組みは多々ありますが、わたしが覗いた場はあまり有効に機能しているようには見えなかった。それが定着している、制度化しているというのはどういうことなんだろう……というのは当初短歌に関心を持ったきっかけの一つでした。結局のところ、システムを回すのは人であり、歌会というシステム自体に過大な期待を持つべきではないのだろうな……というのが今の感覚ですが。

わたしはたぶん404さんより歌会に参加するのが苦手ではなく、作品よりむしろ評を誉められた記憶の方が強くて、でもそれはわたしの中の何かが麻痺している、あるいは麻痺させているのだろうなという感覚があります。だからでしょうか、たまに「だから何だっていうんだろう」と思う時があります……というのは前に、虎屋のカフェあたりでお茶しながら話した気もしますね。短歌が好きでたまらない人、にはなれなかった気がする。

夜、オンラインの英紙朗読イベントをのぞいたら、BeatlesのBlachbirdを謳った人がいました。(比較的平易な)英語の詩を、ああこことここで韻を踏んでいるね、この単語はこういう意味なんだねと確かめ確かめ、日本語より圧倒的に遅いスピードで書かれていることを読もうとする行為、は結構好きだなと思います。言語力の低さによって、読むことの各プロセスが圧倒的に遅くなるのがいいのかもしれません。

そういえば昔、短歌と散文詩を混ぜたようなものを書いたな、と思い出して読み返したら、あまりの拙さになんだか申し訳ないような気持ちになりました。

2021/2/2(火)

節分なので恵方巻を買いました。ちなみに今日はフランスだとクレープを食べる日(シャンデレール)なのだそうです。小さいサイズの三本セットを買ったので、うさぎ達が一本ずつ、果敢に挑んでいました。

認めたくないのですが、最近、気の晴れるイベントが食べ物関係に偏っている気がします。先週は出かけるたびにお菓子を買っていて、自分でもぎょっとしました。たぶんこれはお菓子が食べたいというより、お菓子を買うという行為自体をしたいんだろうなと思います。その一方で、これは年末年始の影響が大きいのでしょうが、コロナの影響で売れなくなった食材やお店の情報が先週あたりからタイムラインに増えてきている気がします。

一週間、一週間と短いスパンをやり過ごし続けているうちに、職場でも自宅でもない「非日常(の自分)」が、どんどん遠く小さくなっていく気がするのが辛いなと思います。

緊急事態宣言の1か月延長が決定されました。土曜日の時点でテレビ局が報道しており、当初国会で言われていた「延長については数日前に発表」が回避されたのは良かったなと思います。現状を踏まえればやむを得ないだろうなと思うのが半分、宣言の他に政策として何をするのだろうと思うのが半分。感染者数が東京が500人、大阪が300人以下になったらという話も出ていましたが、Googleの予測ダッシュボードを見る限り、達成はかなり厳しい気がしています。

夜、ブックマークしているホテルの情報サイトをぼんやり眺めていました。GOTOキャンペーンは停止されたとはいえこの状況なので、何かしらの割引やキャンペーンをしているところはそれなりにあります。行ったらすこしは気分転換になるだろうか。それとも。

2021/2/4(木)

冬晴れの日が続くので昼休みは散歩しています。冬の低い日差しにじわっと背中が温められる感覚は、囲炉裏などのとろ火に当たるときのそれに似ている気がします。

水耕栽培をしていたヒヤシンスの花が見えてきました。まだ葉の間にすっぽり隠れていますが、上からのぞき込むと花の紫色が見えます。こういうものが見つかるから今の時期を春と呼ぶのだなと、初めて理解した気がしました。年賀状に書かれる迎春という言葉が好きなのですが、思えばあれも今の時期に使うのが本来なのでしょう。ヒヤシンスも先週届いた和ばらの苗の蕾も、二月半ばには満開になりそうです。

昨日は春節でした。羅小黒戦記のカレンダーが届き、Twitterの公式アカウントがイラストをアップしていました。1月は使えませんでしたが、カレンダーは旧暦のお正月にちょうど届いたことになるので、それはそれで正しいのかもしれません。

2021/2/5(金)

いつも通りニットを着て出かけたら午後は暑いくらいでした。そろそろブーツでなくスニーカーを履いて出かけられそうです。

職場にはいつも小さいうさぎだけを連れていくのですが、今日は二匹(二羽?)一緒に連れて行きました。同僚の椅子に並んで座ったので、振り向くとそこにうさぎがいる状態です。退屈そうなのでたまに椅子をぐるんと回してやりました。……回しても特に面白いものはないんですが、日当たりの良い部屋なので一日ぽかぽかでした。 


ふりむくと目が合う。

同僚から、先週末に会った合唱サークルの友人がコロナに感染していたと判明したとの報告がありました。

本人もちょっと風邪っぽい症状があるとのことだったので、じゃあ来週は祝日もあるしちょっと在宅勤務多めにしましょうという結論になりましたが、わたしの油断でご迷惑をおかけして申し訳ありませんと電話口で何度も言われて、なんだかぼんやりしてしまいました。生の音楽への飢え、和音への飢えは、私自身昨年末からずっとあります。

年度末の話題が遠くの席からちらほら聞こえてきて、全然実感が湧きません。二月は逃げると言うけれど、あっと言う間に終わってしまいそうだなという予感だけがあります。


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